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2011年5月14日 (土)

源氏物語「浮舟」

舞台「浮舟」について、地方の北野峰琴さんと幾度も語り合いました。作品を創ってゆく過程で幾度も幾度も語り合います。そして、私の想いも理解して頂けるように話し合います。

「浮舟」が薫も匂宮も最後の最後まで決して選べなかった本当の浮舟の心情を、、、突き詰めて突き詰めて行きました。

「浮舟」は薫の心に惹かれその佇まいに惹かれて、、、そこに匂宮が激しく、荒々しく入り込んでくる、、、

女が男を選ぶとき、、、身と心が一つであれば「浮舟」は迷う事無く選び得た筈です。

だが、薫の心と匂宮の身とは決して一つにはなれず、惹かれ行く想いは永遠に二つである筈です。

心惹かれることが身よりも強ければ、また身に惹かれることが心よりも強ければ、それはどちらかになり得るでしょうが、、、

「浮舟」にはどちらも選ぶ事など出来ぬ程に心も身も惹かれて行ったのだと。そして、身に惹かれて行く自らに激しい自責が、、、それに苛まれて、、、自らを消し去ろうと、、、だからこそ仏門に入る事でしか自らを救うことが出来なかったんだと思います。

「浮舟」を創り込んで行く中で以前読んだ山本周五郎の「おさん」を思い出しました。女の性か業か、、、そう思うと「大君」が薫と一度も情を通わす事無く死んでいった事が、宇治十帖のテーマのようであり「源氏物語」の究極の女の生き様のようにも感じます。

ただの一度も情を通わす事無く逝った「大君」、父君の教えを守ったかも知れないが、、、他の女とは決して同列に並ぶとこの無い女になる為には、当時は「永遠の拒否」は男の中に永遠に残る女となり得る「大君」の薫への究極の「愛の証」ではないかとも思います。

その形式(かたしろ)の女として登場した「浮舟」が情に溺れて行く様は、二人の女を通して「源氏物語」の女の究極の姿かも知れません。

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